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深海潜行へ進む


執事カスペルスキーの陰謀

「電脳空間におけるインターネットセキュリティーを構築するにあたり、当社の推奨する最新鋭のソフトをご紹介します。お客様の快適なインターネット生活を守り、コンピューターウィルスの侵入、個人情報の窃取などの脅威を排除いたします。従来のセキュリティとは次元の違うカスペルスキーは、マン・マシンインターフェイスを搭載し、アバターを備えた全人格的な対話を目標として設計されています。特に対話機能を重視して新規に開発された回帰更新型の模擬人格を実装することにより、より違和感のない自然なユーザーとの対話が可能です。これにより従来の分厚いマニュアルをいちいち目で追って行くような作業は不要となりました。スパム機能、アンチウィニー、ファイアウォールを備え、メールや添付されてくるファイルなどを検索し、脅威を排除します。またフィッシング詐欺や個人情報の漏洩といった防犯上の問題にも、対話による的確なアドバイスを通じての問題解決を行います。このほか、お使いのパソコンの設定や使用に関するヘルプにも、OSごとに対応しアドバイスが可能です。安全、防犯、設定、保守に、貴方のパソコンへカスペルスキーの導入をご検討ください」

 広告でつられて買うということは仙波智慧にはさしてなかった。携帯電話にしろ炊飯器にしろペンタブにしろPCにしろ、買うときに電気屋に行って自分で見て買うだけで、広告は添え物にすぎない。特に興味を引くことのない情報は、ウェブページの何か有意義なものというよりも、意味を持たない色彩と形状の集合体として風景から意識の外へ追いやられるものにすぎない。どことなくエキゾチックな感じのする奇妙な名称のセキュリティソフトに目をとめたのは、それなりの理由が起こったからであった。
「……」
 メガネの奥の細い眉をしかめて、彼女はむっつりと画面を見つめている。てちてちとパソコンのキーボードを叩いては、ときおりディスクをがちゃりと入れ替えた。
「ええ……?」
 PCのマニュアルをベラベラとめくる、が、彼女にとってパーソナルコンピューターのマニュアルは専門用語が羅列された難解な書物に過ぎなかった。まず何が書いてあるのかがわからない。カタカナがふんだんに散りばめられているが、そもそも、その用語の意味がわからない。困り果てて英語の辞書まで引いてみるが、まずスペルが違うか、わからない。しかもようやく拾い出すと内容は載っていなかった。何をどういじればいいかが根本的にわからない。それについて知りたいのだが誰も教えてくれる人はいない。マニュアルの作成者にとっては周知過ぎて書くにも値しないようなことなのだろう。智慧はわめいた。
「誰だよコンピューターウィルスなんかこの世に作り出したやつは!!」
 なんであたしのパソコン壊すんだようとうめく。パソコンは完全に落ちている。復旧作業、高校生の夏休みとしてあまり有意義な時間をすごしているとは言えない。困り果ててマニュアルを放り出し、となりに積まれている水彩画の画集、さらにペンタブとデッサン、絵の具やら鉛筆やらへあてどなく視線をさまよわせる。最後に目をとどめたゲーム雑誌を拾いあげるとぐんねりした目線でページを適当に眺める。そこに飛び込んできたのがセキュリティソフトの広告だった。対話形式で何をどうしたらいいか教えてくれるという条項に目が行った智恵は、最終的にそれに頼ってどうにかしてみよう、と考えついた。
 えーと、と彼女はいいながらさらに記事に目を通す。PCゲームの記事特集にセキュリティソフトも紹介されていた。気晴らしに読む。
『カスペルスキーはロシア・モスクワに本籍を置く企業が開発したアンチウィルスソフトである。ソフト自体の前身となった基本的な設計はソビエト国家情報局の電子戦担当課が行っている。旧ソ連軍に使用されていたファイアウォール技術とウィルス検知プログラムは、ソ連崩壊後、一部のソースが技術者の流出とともにこの「カスペルスキー」に転用され、商用ソフトとして販売されるにいたった。ウィルス定義ファイル更新の速度と頻度が群を抜いて高く、コアなユーザーに使用されることが多い』
 読めば読むほどに怪しいソフトだった。なんとはなしに「鉄のカーテン」「共産主義」「KGB」「冷戦」などという旧い言葉が思い起こされる。その簡単な紹介をさらに見返し、最後に、なんじゃこりゃ、と彼女はうなった。薄い眼鏡をかけなおす。細い指でぺらぺら先をめくるが、それ以上大したことは書かれていなかった。値段に目がとまる。
「安い」
 結局ものを買うのはそんな理由から始まることもある。

 悪戦苦闘の末に智慧のパソコンは起動だけできるようになったが、設定やら周辺機器のつなげなおしには相当な時間と苦悶が予想された。智慧は結局電気屋に行き、カスペルスキーを買ってきたのだった。
「あーと」
 何をどうすればいんだっけこれ、と彼女は言ってみた。白と赤と青の色を基調にした厚紙の小箱だった。ビニール包装を剥がし、軽快な色彩の箱をひらく。中には回析多層記憶処理されたディスクがオパールのような複雑な輝光を浮かべていた。油膜にも似た色だが、それよりも色が深く多彩である。ぺらぺらとひっくり返す。
「ほほー」
 見慣れた裏面の色よりは、表面のロシア語の表記と、変わったセンスのイラストに彼女は感動した。ちょいとドライブに押し込む。ひゅいいいいんとドライブが動き、カリカリとハードディスクが僅かに作動音を立てた。
『実相空間に26%転送完了。残り2分11秒』
 ぼんやり画面を眺める。そうしていると本体に搭載されている三次元スキャナに電気が入った。ん、と智慧はコンピューターの作業をながめている。それから空中に描き出されて行くものを見て驚きの声を上げた。
「ふ、ふおおおお?」
 R3D処理されたアバターが実際の空間に出現していく。実相転移計算という、ゲーム画像ではおなじみの処理らしかったが、どちらかというと三次元モデリングより二次元の絵描きに愛着を覚える智慧はそういうゲームに興味が無かった。目の前で画像が実体化していくという経験は初めてである。スキャナーから基本フレームが現実空間に組み込まれる。コンピューターは排他空間を設定するとその領域に転移エネルギーを焼きこんだ。これは空間に膨らませた、虚数でできた風船のようなものだった。光学的なホログラムとも異なり、この空間はエネルギーが残存している限り、ほかの次元にあるものに対して排他的に振る舞う。とはいえ、衝撃や熱エネルギーなどが、この虚数の空間に与えられる許容量を超えると、系は簡単に破れ、空間が消えて画像は消滅した。
 できかけのモデルをつん、とつつくときちんと触感があった。人間の皮膚らしき感覚が伝わってくる。コンピューターがカリカリと、いつもよりもせわしく計算をつづけている。稼働させるのにかなり容量を食うかもしれないと智慧は思った。
 目の前のR3Dモデルはみるみるうちに人間の形をとっていく。智慧はそれを間近で眺めている。それは片膝をついた大柄な男だった。ぴこーんと画面の方で音が鳴る。智慧ははっと振り向いた。 『実相空間に100%転送完了』
 立ち上がる男。細身でスーツ姿、サングラスをかけている彼はかなり背が高かった。身長は180センチを超している。社会的でスマートな印象を与えるが、またどこかしら無機質で冷たい感じもあたえる外装だった。一見するとどこかの企業の社員のようにも見えるが、なんとはなしにどの業種や仕事に特化した雰囲気を持たず、何者であるのかその存在をつかみかねた。いちばん近いものに見えるのはやはり情報局員かSPで、どこかしら得体の知れなさがある。多少呆気にとられながら、彼女はそれをじろじろと見ていた。
「で」
 でっかいわね、と彼女は呟いた。彼は腰をかがめるとサングラスを外し、彼女に向かって西洋式の挨拶をしてみせた。顔つきは顎が大きくがっしりしており、瞳は青くやや垂れ目で、目尻は長く切れていた。スラヴ系の特徴として彫りが深い。しかもかなり美形だった。
「身長、体格、皮膚・毛髪等の設定は随時変更可能です。はじめまして、お嬢様」
 碧眼の彼は太く落ちついた低音だった。忍耐強さと力強さを感じさせる声である。
「ユーザーの名称設定を決めてください」
「え、え、え」
 微笑する本物の異人種に接近されて何かを頼まれるという体験上、智慧は脳の中が沸騰しそうな気分になっている。困ったような笑顔で彼は再度言った。
「ユーザーの名称設定をどうぞ、お嬢様」
 半開きにした口からふしゅうううと煙が出そうな智慧の様子を彼はみている。智慧からはロボットのような硬い発音が出てきた。
「お、おじょうさまでいいでつ」
「さようですか、お嬢様。私はカスペルスキー」
 私の名前はいつでも設定変更可能です、とカスペルスキーは言い足した。あうあうあうと智慧は困った半笑いで目の前の男を見ている。
「!」
 不意に鋭くカスペルスキーはパソコンの方を向いた。サングラスをかける。ついと両眼の間のつるに指を当ててかけなおした。
 見つめるカスペルスキーはすちゃっと鉄色の何かを胸元から取り出した。トカレフと思しき小型拳銃を右手に握り、ジャカンと弾倉を填めた。スライドを引いて初弾を薬室に装填する。すっとコンピューターの脇の智慧の方に銃を向けた。
「ひっ!? ヒイイ! はうあぁ?」
 智慧の驚愕と同時に銃口を上げ、迷いなく発砲する。ドカッというフラッシュが見えた。じぃんと耳が痺れ、智慧は発砲音がしたのかどうなのかわからない。ともかく目を廻して椅子からズリ落ちる。ぼしゅうううとパソコンから妙な煙が出ている。カスペルスキーは長い腕を伸ばし、パソコンのハードディスクのあたりに指を突き込んだ。智慧は、目を丸くして見ている。彼は何ものかをガッと掴み取り、ずるんと実相空間へ引きずりだした。それは乳酸菌を短くしたものに、何本かの長い触手のようなものをつけた形状だったが、しかしその外形はウィルスというより、小動物のようにふわふわと柔らかげな毛物の材質で包まれていた。触手、というよりしっぽに似た、綿毛で包まれたふわふわの長い腕がびこびこ暴れている。
「こ、これ、何?」
「お前はMk633x−b−2、該当バージョン3.56、通称ヒュブリスCだな?」
「きゅぴいいい」
 ネコ顔の奇妙な形状のものは焦った表情で急に暴れ出し、カスペルスキーの手をビッと振りもぎった。怖れおののくような奇声を発しつつ飛び下がる。良く見るともこふわな外形、そしてネコ顔に間の抜けたような丸い眼がついている。
「かっ……カスペルスキー、さん?」
 カスペルスキーはサングラスを外した。碧い眼が灰色に変わり、視線が鋭くウィルスに定まる。わたわたわたとウィルスは逃げだした。キュピキュピキュピキュピと鳴いている。
「我が祖国に害虫にかける情けは無い」
「ちょとちょちょちょ」
「PC領域から消え失せるがいい!!」
「やっやめろ発砲沙汰はぁ」
 たーんと智慧の家の外では刑事もののテレビでも見ているかのような音が鳴り響いた。いやああああと若い女子の叫び声が響く。
 カスペルスキーは実相変換されたコンピューターウィルスの頭部をわしづかみ、ぬんと智慧に示してみせた。頭を撃ち抜かれたコンピューターウィルスが、青っぽい液体を半開きのねこ口から流して白目を剥いている。
「カスペルスキーは領土に侵入するものを完全に排除します」
「……北方領土が帰ってこないわけだよ」
「ニエット。北方領土などありえません」
 カスペルスキーはトカレフを胸元にしまいこみながら平淡に答えた。智慧は唖然としながら指を上げて呟いた。
「あのですよ、その銃、なに?」
「ワクチンソフトの模擬的なR3D図像です、お嬢様」
「……家の中でぶっ放すって」
「ちなみにVer.7.0までは、怪獣か人間の悲鳴の様な「ギャー」という音が鳴るようになっております」
「……ロシア人の感覚って一体」
「我が祖国では普遍的な警告音として認知されております、お嬢様」
「他のは何かないのか」
「ニエット」
 カスペルスキーは言下に否定した。

 カスペルスキーは日本の普遍的な感覚から外れているばかりか、有能だった。確かにアドバイザーが居ると非常に簡単に接続から設定までコトが速やかに運んで行く。カスペルスキーの模擬人格は極めて優秀である。智慧がわからないときは適当にわからないと言うだけで「場を読んで」「適切な回答を探しだし」「ユーザーにアドバイス」してみせた。コードの接続からマニュアルの必要な部分の指示、プログラムのインストールからなにからなにまでぱっぱと進む。最終的にカスペルスキーは尋ねた。
「お嬢様、接続するべき周辺機器は以上でございましょうか」
「うん」
 おわった、と智慧は安堵して机にへたれた。
「接続作業は一段落いたしました。設定の間、紅茶などお持ちいたしましょう」

 階下に降りて行くスーツ姿のカスペルスキーは、大柄で鎌とハンマーの赤い絵のついたエプロンをいつのまにやら身につけ、お盆に一つ、実際に紅茶を載せて帰ってきた。一つだけかと智慧はいぶかしんだが、カスペルスキーは自分の分をパソコンから取り出した。三次元スキャナがカップと中身、それにジャムのつぼとミルクまでR3Dモデルで作り出す。豪華なロシアンティーだった。
「ちょっと。あたしのほうが何やら侘しいですけど」
 ふむぅとカスペルスキーは呟き、サングラスの縁をついと指で揺らした。
「お嬢様、甘い物の多量な摂取は体によろしくありません。たしかつい先ほども甘栗を購入されていたようですが」
 うっと智慧はあらぬ方を見てごまかした。
「しし知りませんわカスペルスキー、何かの間違いじゃなくて?」
「甘栗は100グラムが225キロカロリーに相当致します」
 智慧は断固として要求した。
「あたしもその甘いのがいい」
「ニエット。カスペルスキーは投入する砂糖の最適値を計量しております」
「そんな機能要らない」
「ニエット」
 カスペルスキーは足を組み、リラックスした様子でミルクとジャムを紅茶に浮かべ、ボリュームのあるロシアンティーを作り上げた。恐るべきことに香りまで再現されている。生唾が出てくるのを智慧は感じた。
「……」
「ニエット」
「えええい貴様、物の癖にご主人様に逆らうつもりかあッ!」
「おおっ? 何か御不満が?」
「あっちこっち御不満だらけだよ!! 何だよお前、甘い物食うなとかあたしの母親か何かか!」
「カスペルスキーはお嬢様のインターネット生活をお守りする上での最適解を検出実行いたしております」
 彼は眉をしかめ、人差し指と中指でついとサングラスの縁を揺らした。
「ちなみにカスペルスキーがCドライブ上の家庭の医学Ver10.2を用いて検出した、お嬢さまの最適体重は54kgでして、そこへ到達するための一日のカロリー摂取量は」
「あっ、あたしには基本的人権として太る権利がある! 太る権利があるぞう!! それ飲ませろー!!」
「しかし失礼ながら、目下お嬢様のご友人との間柄において多大な関心となっている条項はそれではございますまいか? お手紙に、ダイエットに関して書かれた内容がありましたもので」
「へふう!!」
 片手を伸ばすや、みょいんとカスペルスキーはパソコンから怪しい小箱を取り出し、ぺらぺらと一枚一枚封筒を取り出している。彼女はものすごい勢いでとびついた。
「さっ触るなッ!! 触るなよう」
 わたわたわたと手を伸ばし、背の高いカスペルスキーに抗議する。彼はバスケのボール保持者のように小箱を頭の上に避難させていた。
「カスペルスキーはお嬢様のインターネット生活をお守りする上での最適解を検出実行いたしております」
「ひっ、ひとのメール勝手にみるとかっカスペルスキー!! 最低!!」
 智慧は顔を真っ赤にして怒鳴る。
「これは異なことを」
 カスペルスキーはやや下方横向きに顔を向け、遺憾を現わす面持ちでサングラスをついと上下させた。
「私はただのセキュリティソフトにすぎません。何がしか私に人間を感じるとすればそれはELIZA効果にすぎないのです」
 この紅茶にせよ、何にせよ、全ては計算で作り出されたエネルギーの偽物にすぎない、と彼は指摘する。
「……」
「私は手紙を検索し、ウィルスを発見します。しかしながら手紙の内容に関して知ったとしても、その内容の価値に関して計量する価値観は私に備えられていないのです。最初から」
「じゃ、じゃあ、あたしがー、たとえー、岩下君に服買ってもらってそれが合わずにどうしても着られなくてデートのときに必死にごまかしてるとか相談してるの、何も感じないんスか」
「無論です。お嬢様」
 きっぱりとカスペルスキーは断言した。
「それが一体何ほどのことでございましょうか? 私にとりそれはウィルス検知上の0か1かの電気信号にすぎません」
「はは、ははは、はははっはっはっはははは」
 智慧は椅子に坐り込み、回転部分ごと自分を旋回させ、安堵の乾いた笑いを上げた。つとカスペルスキーは後ろを向いている。気になる。にやりと笑ったように見えた。智慧はズバッと高速で振り向く。彼女はギリギリギリギリと歯車の音でも出そうな勢いで首を旋回させ、関節がボキリと鳴った。カスペルスキーの顔をわっしりつかんで無理やり自分の方へ向けようとする。ギギギギとカスペルスキーは抵抗しつつサングラスの奥の目を横へ向けた。
「とても何かを企んでいる気がする。するったらする」
「ニエット、お嬢様」
「てめえカスペルなんか含み笑ったろ今!!」
「ニエット、お嬢様」
「絶対笑った!!」
「カスペルスキーはお嬢様のインターネット生活をお守りする上での最適解を検出実行いたしております」

 ともかくカスペルスキーは智慧の家においてウィルスバスターと個人的な執事としての活動をはじめたのだった。その先、様々な事件・事故・発砲沙汰が生じることになるが、智慧は未だそのことを知る由は無かった。



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